向日葵を暴力女と呼ぶが、あれほどのガイジが側にいて暴力を振るうなというのも酷ではないか
彼女は歳に似合わない落ち着きをしていて、それ故に櫻子への暴力行為が普段の彼女の聡明な振る舞いと
正反対な短絡で過激に見えてしまい彼女の野蛮な印象を強めてしまっている
しかし、やはり彼女も中学生である。小学校を出て1年にも満たない少女なのである
その少女1人に、大人でも手を焼くガイジの目付けと世話を学校にいる間中周りの人間は押し付けているのである
影の薄く心優しい友人が時たまその苦役を分かち合ってくれてはいるが、しかしそれでも殆どの部分が中学1年生の
少女1人のか弱く可憐なその双肩にのしかかっているのだ
確かにガイジは社会的な弱者であり、保護されるべき存在である。櫻子という低能を1人で世間に野放しにすることは
野生動物を都会で野放しにすることと同じで周囲に甚大な迷惑と被害を与えることに繋がる
そんな恐るべきクリーチャーの操縦を向日葵という少女1人に架すことで彼女が受けるストレスはどれほどのものになるだろうか
それは容易に察せられることだし、恐らく我々の想像を超えた苦痛を彼女は味わっていることだろう
暴力はいけないことである、これは当然のことだ。社会的弱者に向けられるそれは尚更のことだろう
だが、だが考えてほしい。古谷向日葵という聡慧で懇篤な少女が暴力を振るうほどまで追い詰められているのは何故か
柔和にして明哲、誰からも好かれ他人に惜しむことなくその愛と叡智を振り向けることができる彼女が何故暴力を振るうに至ってしまったのか
我々は弱い、弱いが故に強き者に縋ってしまう。あの人は強い、あの人は賢い……だからあの人に任せれば万全だろう、と頼ってしまう
しかしその行為がどれほどの悲劇に繋がってしまうのか、弱者の祈りを支え続ける強者はいつまで強者であり続けることができるのか
弱者故に、強者なくして立ち行かぬ我々弱者だからこそ、それを考えていかなくてはないのだろうか