藤井教授は書状に「青野カ原ニテノ合戦」と記載されていたことに着目。
青野カ原は南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや、
関ケ原から東北東約8キロの地点にかつて「青野村」(現・岐阜県大垣市青野町)があり、
毛利家一族の吉川広家の自筆書状や「慶長記略抄」の狂歌にも関ケ原の戦いが「青野か原」と記載されていると指摘している。
また合戦の当事者である家康が合戦当日に伊達政宗に書いた書状で「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」と別の表記がされていることなどから、
「当初は関ケ原の戦いという呼び方ではなかった」と推測している。
「天下分け目の合戦」として定着している関ケ原の合戦だが、
藤井教授は「今回の史料が出てきたことで、関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある」としている。【岡崎英遠】
http://mainichi.jp/articles/20160331/ddn/012/040/035000c
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2016/03/31(木) 20:09:19.371386ID:H0FqSSSY0■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています