1968年(昭和43年)、明治100年を機に、政府内で国旗、国歌と共に元号法を定める機運が高まり内閣法制局が一世一元とすることを骨子に検討を始めたが、
元号を使っているのは日本だけであるとして西暦に統一すべしとの論も強かった。
1977年(昭和52年)日本青年協議会(日青協)が元号法制化運動を本格化し、「地方から中央へ」を合言葉に地方議会議決運動を展開させた。
この運動について、日青協の後見役であった村上正邦は後に「何も特別なことではない。左翼から学び、地方決議が目的達成の早道だと徹底したんだ」と述べている。
日本会議では、1977年(昭和52年)9月にの元号法制化を求める地方議会決議運動が始まり、46都道府県、1,632市町村で議会決議を達成したとする。
日本会議事務総長の椛島有三は、日青協の機関誌において「元号法制化に踏み切る時、私どもは「解釈改憲路線」の選択をしました。
これまで占領憲法解体という、直接的な明文改憲しか考えてこなかった私どもにとっては大変な選択で、改憲運動の後退になるのではないかというジレンマがありました」と述懐している。
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