天が地から遠くへだたっていると同じくらい、真の平等の精神は極端な平等の精神から遠くへだたっている。前者の精神は、すべての者が命令するようにしたり、あるいは誰も命令されないようにすることにあるのではなく、すべての者が自分と同等の人々に服従かつ命令することにある。それは主人を全くもたないことを求めるのではなく、自分と同等の人々しか主人としてもたないことを求めるのである。
 自然状態においては、人間は確かに平等の中に生れるが、そこにとどまることはできないであろう。社会が彼らに平等を失わさせ、彼らは法律によってしか再び平等にはならない。
 規制された民主政とそうでない民主政との間の相違は次のようなものである。すなわち、前者においては、人は公民としてのみ平等であるが、後者においては、人はさらに役職者としても、元老院議員としても、裁判役としても、父としても、夫としても、主人としても平等である。
 徳の本来の所在は自由のもとにあるのであって、それは隷従のもとにあるわけでも、極端な自由のもとにあるわけでもない。

モンテスキュー
法の精神第8編第3章極端な平等の精神について
岩波文庫法の精神(上)p.227
BBR-MD5:CoPiPe-f80c157bc16a7a87e8a2e09cc1ec9a4f(NEW)
BBS_COPIPE=Lv:0
PID: 42350
[0.187463 sec.]
This is Original