の突出部)を組み合せ、死角をカバーしあう星形要塞が主流となっていました。江戸幕府の命により、当時幕府側についていたフランス軍から学んだ情報を基に、函館奉行所に務めていた武田斐三郎が設計・建設しました。
.
.■五角形の星形要塞、高遠の石工などが築く
.
. 一方、「龍岡城」を建設したのは、老中や若年寄、陸軍総裁などを歴任した松平乗謨(のりかた)です。松平氏の一族、大給(おぎゅう)松平家の当主で、本領は愛知県岡崎市にありました。1864年(元治元年)、飛び地である長野県佐久市にフランスの城郭を模した城の建設に着手します。竣工(しゅんこう)は戊辰戦争が始まる前の1867年(慶応3年)です。函館の五稜郭よりも小ぶりですが、同じく五角形の星形要塞で、周囲を土塁と石垣で覆いました。
.
. 龍岡城は、堀が全部張り巡らされていないなど、未完成の形で残っています。石垣は六角形の石を積む「亀甲積み」、横方向に均等に積み上げて横の目地(継ぎ目)を通す「布積み」といった技法で築かれています。当時、同じく譜代大名が統治する高遠藩(長野県伊那市)が洋式築城のための石工を養成していて、高遠から石工を招いて築かせたそうです。
.
.■山からの砲撃に弱く、実戦には不向きかも
.
. なぜ、山深い地に城郭を築いたのか。本領が東海道に近く、国内で動乱が起きた場合、巻き込まれる確率が高いことなどを案じて、主要街道から離れた地に構えたのではないかなどといわれています。ただ、星形要塞は平野でこそ機能を発揮しますが、龍岡城は山が近く、山の上から砲撃されれば長くは持ちこたえられなかったでしょう。蘭学なども学んでいたという乗謨ですから、そういう弱点は知っていたはずです。学んだ西洋の知識を基に洋式城郭を築城するという夢をかなえたかったのではという指摘もあります。明治維新の際、この城で戦闘などは行われませんでした。明治になってからは、乗謨は日本赤十字社の前身、博愛社の設立などに関わっています。
.
. 現在の龍岡城には、当時の建物としては唯一の「お台所」が現存しています。廃藩後、学校の校舎として使用されていたため、残りました。また、今年3月には城内にあった小学校が閉校となりました。今後、当時の姿に復元するなど城の整備が行われる予定です。
.
.■新海三社神社、佐久の地名の由来になった神を祭る
.
. 「龍岡城」から10分ほど歩くと、「新海三社神社」に着きます。祭神は、興波岐命(おきはぎのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)らで、諏訪大社(祭神は建御名方命ら)から佐久地方の開拓を命じられた興波岐命が最初に耕した土地がこの地だそうです。興波岐命は新開神(にいさくのかみ)とも称し、「佐久」の地名の由来にもなったとか。
.
. 「新海三社神社」の建物群には室町時代後期の建造物が含まれます。境内に立つ三重塔は神仏混合時代のもので、もとは同
BBR-MD5:CoPiPe-28350caa757f15096fa17efa774b1ebe(NEW)
BBS_COPIPE=Lv:0
PID: 92788
Inq-ID: agr/7cf47bfe9eb6e04b
Proc: 0.280827 sec.
This is Original
2023/05/28~ 粘着の正体見たりクボヲタク ✿ 9
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
70120時間埋め立て荒らしパソおじ⇄【ddlG】確認⇄ ◇3yPKpHspFM (スプッッ Sdbf-ddlG)
2023/05/30(火) 14:12:50.103951ID:Lw87MhoKd■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています