浅野琢郎(あさの たくろう)

帝国陸軍軍人/仙台第二師団/大政翼賛会会員

1944年にオヤノイ=サンデトチゲ島司令に着任。敵陣のガスに火をつけるといったゲリラ戦法で敵を苦しめ、帝国陸軍で初の火炎放射器を用いた作戦を実行した事でも知られる。
米軍の中では彼の「Oi!Asano!」という手配書が作られ要注意人物として警戒された。
軍内では自ら厨房に入り部下に作ったカレーを振る舞うといった親しみやすい上官として知られた。
終戦間近の1945年、補給も切れた状況で「尊厳の玉砕」を決意。部下に「勢ノ六時間作戦」を伝え、木刀を片手に自ら殿を務め突撃を行った。
勢ノ六時間作戦において米軍主力に大打撃を与えたものの自身も額を切り裂かれる致命傷を負い「アゝ静カデイイ」と言い残しオヤノイ=サンデトチゲ島5553.4577地点ヤギヤマ高地で戦死。その生涯を元にした小説「仙台の白い空」が有名。
また陸軍省勤務時代に「頑張ラウ日本」という標語を初めて考案した事でも知られる。
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