話をまとめます。オレが思い出すのはこんな話だ。

ハーバーマス→「コミュニケーションは可能である」
ルーマン→「馬鹿?」(コミュニケーションの不可能性については2ちゃんねらーがよく知っている)
この相似として
あひる→「熱血としてあらねばならぬ、ネット上のレスポンスをたとえば(ある視点においては)現実のやりとりのように受け止めねばならぬ」
フジコ・ω・マン子→「馬鹿?」

がある。つまり、こういうことだ。認識の視座からは後者=ルーマン-まんこが勝利を収めるかもしれない。
しかし、政治的な、あるいは正義の問題として、ハーバーマスとあひるは読解されるべきなのではないか。
つまり「コミュニケーションは可能だ」は「可能であるべきだ」であり「レスは個性の表出だ」は「表出であるべきだ」であるという理解が正しい。
そしてルーマンはその構造を知りつつあえて発言したが、フジコ・ω・マン子は知らないのではないか

オレは運用におけるレスのやりとりで、いつもこういうことを思う。つまり、文章と文章の目的について。