ところで、「介入できない領域」には、一例としてsakuがある。これは天災のようにしか感じられない
というのも、われわれがsakuの判断基準に影響を及ぼす余地がいっさいないからだ
(むろん、じっさいにはあるのかもしれない。しかしそれはまったく明らかにされない)
あるいはまた、スレストの身体的限界(一日数時間は寝る)もわれわれの意識に内面化されるだろう
こうなったとき、サヨであれウヨであれ、ある系の完成を志向することは非常に難しい。しかしそれでいいのだ
不可能であれ、不可避だ。なぜなら、それはニュー速を想う限りで強いられる選択だからだ
またこの前提は、「サヨよりウヨ」の結論に大きく貢献する。現実だって、どちらがよいからは知らないが、
「サヨよりウヨ」のほうがしばしば大きな拡張性をもつではないか?