一民族、一国家、一言語

wikiによると、ナチスドイツ時代のドイツの標語が 「一つの民族、一つの国家、一人の総統」だったらしい。

同じくwikiによると、政治家により日本が民族国家であるとの主張がたびたびなされている。
麻生太郎 - 2005年10月15日、総務大臣在任中、福岡県太宰府市の九州国立博物館開館記念式典の来賓祝辞で
「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」「今は(世界各地で)人種、地域、宗教で
いろんな争いが起きている。日本は一国家、一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」と発言。

では、これは忌むべきことであるのか?

私は、指導者、教義、世界像それぞれを一つに固定する考え方は、社会の進歩を止め、多様化を容認しない
害悪なものであると考えている。
要するに、こういうことである。
× 一人の指導者、一つの教義、一つの世界像
反対に、これらは認めている。
○ 一人の指導者、多数の世界像、雑多な教義
○ 一つの世界像、多数の教義、雑多な指導者
○ 一つの教義、多数の指導者、雑多な世界像

もし神が居たとしたら、一人の指導者、一つの教義、一つの世界像を強制したであろうか?
ナチスの神なら、一人の指導者、一つの教義、一つの世界像を主張するであろうが、
民主的な神なら、多数の指導者、多数の教義、多数の世界像を、容認してくれるであろう。
そして、ひろゆきとその信者の神はナチスのそれに近いらしいと、私は考えている。