>>667
なんと、生んだばかりの子どもを自ら殺し、それを王氏の仕業に見せかけたのだ。
王氏には子どもがおらず、則天武后を妬んだ上での犯行だと思わせたのである。
さらに、皇帝の寝台の下に呪いの人形を隠し、王氏が妖術を使って皇帝を殺そうとしているという噂を流した。
ついに捕らえられた王氏を退け、則天武后は31歳で正室の座に就いた。
彼女は政敵には容赦なく、その後も対立する側室たちを残虐な方法で死にいたらしめたのである。

則天武后は、国号を唐から周へと改名し(古代中国の周王朝に憧れていたからだとされる)、酷吏(こくり)という制度を採用した。
この酷吏とは、逮捕された罪人に拷問を加え、時には殺してしまうという恐ろしい制度であった。
加えて則天武后は臣下や国民に密告制度を奨励し、彼女の政権批判をした者を片っ端から逮捕させた。
王族も民衆たちも、いつ自分たちが密告され、酷史たちに逮捕されるかと怯えながら暮らしていたという。
そして則天武后はこの頃、残虐な拷問方法を格段に進歩させていったのである。
彼女は、臣下や国民を“恐怖”で支配したのだ。

則天武后はなぜ悪女と呼ばれたのか?【中国三大悪女】
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