2ちゃんねらーに多いのが「厳罰主義者」。
正義感あふれる人が多いのか、ちょっとした罪でも
「懲らしめてやる」とばかり過剰なまでに袋叩きしてしまう。

たとえば「忘れられる権利」にしても、犯罪者が刑務所から出所して
社会復帰する時の妨げになるからと、過去のニュース記事のログを削除するとか、
犯人の名前はスレタイに書かないようにとのお達しに対しても、
「罪はたとえ出所しても一生消えない。
40年ぐらい真面目に生活して周囲の人達から、そろそろ許してやろうよ」という声が
出始めて初めて贖罪が終わったといえるのだとシレッという始末で
なんか極悪犯人と、その他のつまらない罪とをごっちゃにしているのではないかという。
そんな極端さをひしひしと感じる。

まあ、それは死刑の裁判などに直接関わったことのない
一般市民としての感覚なのかも知れないが。
しかし、おそらくは、そういう人達も実際に裁判員として判決を降ろす立場になれば、
安易に死刑という罪を扱えないことに気づくに違いない。

たとえば私が削除人だった頃、常駐板の削除依頼をしていたのだが、
その時点では一利用者の感覚で「こんなのはGLやLRに完全に抵触しているのだから
完全に削除対象だろう」と自信を持って削除依頼していたものだが、いざ、削除人として
それらを判断すると「ちょっとこれは潔癖すぎるなと。こんなのをいちいち消してたら板が
窮屈になってしまう」と、自分の依頼を、自分でスルーしてしまうこともしばしばだった。

それはユーザーでいるときの「私(プライベート)」な立場と違って
削除人は「公(オフィシャル)」な立場であり、個人の価値観を捨てて
利用者全体の為に公平無私な立場を演じなければいけないペルソナ/ポジションだからだ。

死刑の判決を下した裁判員が泣きながら、あるいは苦渋の表情で裁判所から
出廷する映像がテレビで流されたときに私たちは「当然の死刑判決なのに何故泣くのか」と
憤然とやるかたのない思いに囚われるが、それは実際に裁判官になってみれば
その心情も含めて理解できると思う。
勿論、公私混同に抵抗感のないノーモラルな人は別としての話だが。

「地位が人を作る」という。公的なポジションというのは「罪を与えるということの実態」を
知る身となりうるが故に、安易な厳罰論がいかに無責任で先入観や印象論に左右された
感覚的なものであったかを思い知る、良い機会になるだろう。