源 義経(みなもとの よしつね、源 義經、平治元年(1159年)- 文治5年閏4月30日(ユリウス暦1189年6月15日)は、
平安時代末期の河内源氏の武将。氏は源、仮名(けみょう)が九郎、実名(じつみょう)が義經(義経)である。

河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。
平治の乱で平清盛と戦った父の敗北により鞍馬寺へと預けられるが、後に奥州平泉へと下り
奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平家打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、
一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。
戦後の論功行賞で十分な褒美を得られないどころか、一部所領を没収されたのを恨み、
自立の動きを見せた為、頼朝と対立し朝敵とされた。
全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び奥州藤原氏を頼ったが、
頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。