”声”って考え方があるです。
困っているという”声”があるから、荒らしに対応する。
訴える”声”が大きいから、大変でも反対されても対応する。

スレを立てるハードル、難しい書式で報告するハードル、
長期間放置されるハードル、荒らしさんに耐えスレを正常化
しようと努力するハードル、野次馬に詰られ質雑で罵られても
そこからヒントを学んで一人前の報告者さんになっていくハードル
(無駄なコストはそりゃ無い方がいいのですが、)

そんな大きなハードルにも負けない”声”の根源は”困っている”
”何とかしたい”という”思い”だと思うです。その妥当性はどうあれ。。

逆説的に言えば、”声”には”思い”が伴うべきだと思うのです。

提案なら問題ないと思うですよ。
ただ、報告するしないも含めてその意志・”声”のでどころは常に”思い”を持った
報告者さんにあるべきだと思うのです。

報告をお願いする(あるいは(そのつもりは無くとも)強いる)事は、
”声”を評価する側ではなく、既に共に”声をあげる”側に立つことになると
思うのです。
”思い”をも共有し、報告者さんと共に”声”を上げて歩む。そんなスタンスも
もちろんありだとは思うです。ただそのスタンスにはひとつの”線”がある事は
認識しておいてほしいなぁとも思うのです。

全ては私の個人的な思いでしかないですが。
お答えになりましたでしょか?>43さん