> 人の絵のアラを見つけても自分の絵の問題点ではないので正直あまり意味はない。
これは表面的には、そもそも論理がおかしい。
他人の絵でも自分の絵でも同様にアラはアラでしかなく、区別する事自体がおかしいからだ。
ただし逆に、だからこそ、立ち位置の違いは分かる。
俺は最後の2Dを問題にしてて、君は模写でも2D→3D→2Dで、3Dを問題にしてる。
他人の脳内3Dモデルは絵には直接現れていないし、
そもそも他人の脳内3Dモデルを修正しまくっても自分の脳内3Dモデルは全く修正されないのだから意味はない、というわけだ。

この辺が、「絵は絵を描く事によって上手くなる」というアナログ時代の大正義でちょっと曖昧になってる。
「グダグダ言わずに絵を描け!」が大正解であり、掘り下げる必要がなかったからだ。
「認知の歪み」の認識も
・元々歪んでる脳内3Dモデルの校正作業
・見慣れてくると歪みが認識出来なくなる「見慣れ」の問題
が混在していたが、既に言ったように、模写も
・2D→2D模写(目コピー)
・2D→3D→2D模写
が混在してる。ただ、流れ的に後者(2D→3D→2D模写)が正解なのは分かる。
脳内3Dモデルがないと見ずに描けるようにはならないから、
漫画で人を走らせて、それを俯瞰するだけ(=現地でのマラソン観戦)の絵も作れない。
だからこそ「認知の歪み」に話を振っても脳内3Dモデルの話になる。
アナログ時代では、脳内3Dモデルの精度が絶対的に重要だったからだ。(勿論それ以上に出力精度は重要)