よくある、
「取り巻きはここはひろゆきの庭だって繰り返してばかりで思考停止している」
という言だが、これは言っている方にもそっくりそのまま当てはまる。
なぜなら、彼らの口からそれを行なうべき客観的論拠や実施方法などが
聞かれる事はほとんど無いからである。

彼らはほぼ例外なくその行動の根拠として自らの感情以外に持つものを持たず、
無意識にせよ意識的にせよ自らの発言が実行されうるものではないという事を知っている。
加えて言うなら、その発言実行の為の苦労と発言実行によって晴らされる感情とを
天秤にかけ、ほとんどの者が感情を選択して去っていく。
この板や批判要望板で連綿と繰り返されてきた歴史。
感情は取りまとめられた多数を持ってしか、その力を発揮する事は無い。
そして彼らは取りまとめる事も多数を集める事も“めんどうくさがる”。
しかしながら要求だけはしようというのだ。
これを呆れたものと言わずして何と言おうか。

自らが覚悟もてその言葉を発したのならば、その言葉を実現する為に
全精力を持ってあたれ。覚悟無く発したのであれば、そのまま黙って去れ。

無さずに去る時、どう言い繕おうと、貴君の発する言葉は捨てゼリフと謗られるであろう。