空襲被災地一帯では、11万人ともいわれる犠牲者の亡骸を
公園や校庭などで山積みにして火葬し、錦糸公園に1万3951体、猿江公園1万3242体、
隅田公園は7530体、菊川公園には4515体など公園や寺などに万から数千単位で埋葬された
これら引き取り手のない個別埋葬者、氏名不詳の合葬者、合計約11万人の遺骨は
1951年に関東大震災の慰霊施設であった震災記念堂を東京都慰霊堂(墨田区横網)と改称して納骨されているが
その仮埋葬地には公的な説明板も慰霊碑も建てられていない場所も多く、公の手による慰霊碑の設置を求める声は強い

上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり
餓死寸前の子どもたちが生きるために窃盗や売春をおこなっていたこと
GHQが「治安対策」を名目にして犯罪の有無に関わらず浮浪児を見つけ次第摘発していったことも
戦争が生み出した悲劇として伝えられている
この「狩り込み」を受けた孤児たちは、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場に
つくられた収容施設に強制的に送致され、檻に入れられて監視・収容されたという