日本軍は実弾の管理が厳しかったようですが、
軍規の弛んだソ聯軍は、これらの兵士に丸型又は縦型の70数発の実弾入り弾薬の携帯も許していましたから、
彼らは街中を歩きながらでも面白半分に発砲するのです。

それからというものはマンドリンを突きつけてのソ聯兵の凄まじい略奪が始まりました。
略奪に加えて・・・暴行、強姦、拉致、殺傷などの行為は、周囲の目を意識せず公然と行うのです。

やがて日本軍将兵は武装解除され、平壤市郊外の秋乙にあった旧師団に終結させられ、
満州の延吉経由でシベリアに送られ、その後数年も酷寒のシベリアで過酷な強制労働に服することになります。
また日本人の警察官、司法関係者、行政官庁の職員、大会社の幹部社員等は
その頃創立されたばかりの北朝鮮保安隊に逮捕拘留されました。

夏の盛り満州から着の身着のままで避難してきた人々にとってはまさに地獄の季節でした。
満足な食料の配給もなく、バラック小屋などに詰み込まれて、朝になると冷たく凍った死体と化していく人々。

零下20度をこえる寒気の中で、栄養失調と発疹チフスで死んでいった遺体はカチカチに凍り、倉庫に積み重ねられていました。
板切れに死亡者の名前を墨で書いて墓碑として打ち込みました。
やがて山全体に針の山のように墓碑が隙間もなく打ち込まれてゆきます・・・
その悲惨な様子に、胸がつぶれる思いがしました。