8月9日ソ聯軍が対日参戦。
ソ聯軍侵攻と同時に満州は戦火にさらされ、満州在住日本人は避難を開始し、
ソ聯軍の攻撃に合い、暴徒と化した満人の襲撃を受け、
大勢の人々が殺されたり、集団自決をしたり、略奪されたり、大変悲惨な運命にさらされていました。

日本軍は実弾の管理が厳しかったようですが、
軍規の弛んだソ聯軍は、これらの兵士に丸型又は縦型の70数発の実弾入り弾薬の携帯も許していましたから、
彼らは街中を歩きながらでも面白半分に発砲するのです。

それからというものはマンドリンを突きつけてのソ聯兵の凄まじい略奪が始まりました。

略奪に加えて・・・暴行、強姦、拉致、殺傷などの行為は、周囲の目を意識せず公然と行うのです。

北朝鮮と南朝鮮との境界とされた38度線は
ソ聯軍によって完全に封鎖されたため、私達日本人は北朝鮮に閉じ込められたことになりました。

やがて日本軍将兵は武装解除され、平壤市郊外の秋乙にあった旧師団に終結させられ、
満州の延吉経由でシベリアに送られ、その後数年も酷寒のシベリアで過酷な強制労働に服することになります。

私達少年は毎日の様に使役と称して飛行場や兵舎、倉庫やその他施設の資材などの運搬や
貨車への積込などの労働に無償でかり出されました。