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電源開発 60年の執念
紆余曲折の歩み
 電源開発の原発を巡る取り組みの歴史は半世紀を超す。
歩みをたどればMOX燃料を全炉心で使う「フルMOX」の大間原発が計画された理由が見えてくる。
 国と電力9社が出資し、特殊法人の国策会社として設立されて5年後の1957年。
電発は日本発の原発の実施主体に名乗りを上げた。
戦後の復興期、9電力には資金や技術で困難な大規模水力発電を手がけて電発は9電力体制を補完したが、将来を見越し「原子力」にも早くから意欲を示した。
 国策会社に行革の壁
 だが、正力松太郎・原子力委員長(科学技術庁長官)が原発の民営論を唱え、国管論の河野一郎・経済企画庁長官との間で「正力・河野論争」が起きる。
結局、岸信介首相の裁定で、9電力と電発が出資して57年に設立した「日本原子力発電」(日本原電)が実施主体に決まった。
出資比率は9電力80%、電発20%。
実質的に「民」主導で、「国策民営」の日本の原発事業の枠組みが固まった。
 日本原電の東海原発(茨城県)は66年に営業運転を開始。
これは英国製ガス冷却炉を土台にしていたが、9電力は米国製の「軽水炉」の導入に乗り出していく。
電発は実施主体となれぬまま、軽水炉とは異なる新型炉の開発路線を歩んだ。
 背景には国策会社としての同社の立ち位置があった。
 石炭火力発電も手がけ、作った電気を電力会社に売る「電力卸」として成長した電発だが、
電力会社が力をつけると「役割は終わった」と行政改革の中で廃止論が浮上する。
最終的に存続はしたが広域電力融通といった独自の役割が強調され、
電発は道内と本州間の送電施設「北海道・本州間電力連系設備(北本連系)」の整備などを進めた。
 電発の原発事業も、69年の大平正芳通産相と木川田一隆・電気事業連合会(電事連)会長の会談で「技術開発的性格を有する原発の開発を行う」とされた。
これに沿って電発はカナダで開発された「CANDU炉」などの検討を進めたが「時期尚早」などとして実現に至らなかった。
 82年、電発は政府と電力業界の要請を受け、「新型転換炉(ATR)」実証炉の実施主体に決まる。