http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2chd/1481703773/996

>ただ何もしないのだと、見たのか見ないのかわからないので、どのような理由で
>対応されなかったかは不明確です。
いやいや、見たことが分かっても「どのような理由で」なんて分からないでしょ。
「恣意的である」という問題において、見なかったことも対応しなかったことも同じじゃないですか。

『ある報告が対応されなかった』という場面を想定してください。
<「見ました」宣言>がある場合、「見たのになぜ対応されなかったのですか?」、もしくは「なぜ見なかったのですか?」と言う質問がなされるでしょう。
これがもし<「見ました」宣言>が無い場合、「その報告は見てもらえたのでしょうか?」という質問になり、
その返答から、「見たのになぜ対応されなかったのですか?」、もしくは「なぜ見なかったのですか?」と言う質問がなされるわけです。
<「見ました」宣言>があると恣意的かどうかを判別できるといいますが、質問をワンステップ省略できるというだけのことですよ。

それにどれぐらいの意味があるのですか?
あなたはいいかもしれない。
でも不要と感じる者に強いてまでその“ひとつの質問”は大変な(コストのかかる)ことなんですか?
また強いてまで遂行させる理由があるのですか。
最終的には行使した結果でしか、恣意的かどうかの結論は出せないはず。
ならば行使の結果をもとに考え(→議論し)、判断すればいいのでは?